210605イベントレポート / IWAKAN TALK SESSION「愛情と制度」
世の中の当たり前に”違和感”を問いかけるマガジン『IWAKAN』vol.2<愛情>。
発刊記念exhibition(6月4日〜6月19日)に際して、6月5日、TOUTEN BOOKSTOREにてトークイベントを行いました。
そのトークを一部記事にして公開いたします。
登壇者
・Kotetsu IWAKAN編集部
・松岡宗嗣 ライター・一般社団法人fair代表理事
・古賀 詩穂子 TOUTEN BOOKSTORE店主
松岡宗嗣さん共著・監修書籍一覧
・LGBTとハラスメント(集英社新書)
・「テレビは見ない」というけれどーエンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読むー(青弓社)
・こどもジェンダー(ワニブックス)
用語解説(「LGBT報道ガイドライン」を参考)
・シスジェンダー……出生時に割り当てられた性別に違和感がない、性自認が一致し、それに沿って生きる人のこと
・トランスジェンダー……出生時に割り当てられた性別とは異なる性自認の人。
・ヘテロセクシュアル……性的指向が異性に向く人。異性愛者。
・バイセクシュアル……性的指向が男女どちらにも向く人。両性愛者。
・ホモセクシュアル……性的指向が同性に向く人。同性愛者。
・ゲイ…性自認が男性で、性的指向が同性に向く人。男性同性愛者。
・レズビアン……性自認が女性で、性的指向が同性に向く人。女性同性愛者。
・アウティング……本人の性のあり方を、同意なく第三者に暴露してしまうこと。
『IWAKAN』の成り立ちとISSUE”愛情”の経緯
Kotetsu)最初に『IWAKAN』の概要とどういう背景で作られたのかを説明します。これは僕サイドの話と、REING(『IWAKAN』出版元)サイドの話があります。僕サイドの話からすると、元々僕は大学を辞めてからジェンダーやセクシュアリティをテーマにアーティスト活動を始めて、Zineを作ってイベントとかで出していました。イベントで実際に手に取ってくれた人と会話しながら、それについて話せるのもすごい素敵なことだけど、書店で並べられないっていうのと、自分の見えてる範囲しか変化が起こせないっていうZineの届く限界を感じてちょっとモヤモヤしていて「何か雑誌を作りたい」と思い始めたタイミングで、去年の4月に国内で唯一商業的に発売されてた『サムスン(SAMSON)』っていうゲイ雑誌が休刊、事実上廃刊してしまったんです。日本で商業的に売られているクイア/ゲイのための雑誌っていうのがなくなってしまったことがめちゃめちゃに衝撃的で、社会のムーブメントとか若い世代の発信を見ていると、クイアに対してもっと権利を求めたりとか、多様なものがあって当たり前だとなりつつある中で、雑誌っていうメディアにおいてはどんどん衰退していってっていうのがヤバいなと思ったしすごくショックだった。僕は雑誌が好きだったから、自分たちの存在っていうのが、雑誌の中から消えてしまうことに危機感を抱いて、そのタイミングで本当にもう今作らなきゃと思ってInstagramで「雑誌作りたいんだけど誰か一緒に作らない?」と呼びかけたら、REINGを運営しているEdoとAboさんが声をかけてくれました。REINGはジェンダーニュートラルなアンダーウェアを作ったり、コミュニティベースでいろんなプロダクトや広告、社会の変革になるようなコンテンツを作っていて、そこが主催するイベントとかに元々僕がよく遊びに行ってたんです。そしてそのREINGのコミュニティから「こういうのが必要」という声があればそれは一緒に作りたいっていうREING側の思いもあって。僕もREINGが普段から発信していた内容だったり、ジェンダーニュートラルっていう、ジェンダーにおいてもセクシュアリティにおいても全ての物事が男女の二元論ではなく、多様で中立、もっと混ざり合ったものだよねっていうのを常日頃から発信していたので、僕としてもそこで作りたいと思いました。
一緒に作り始めたのが去年の5月くらいで、創刊したの去年の10月。vol.1では「女男(じょだん)」というテーマで、大きくジェンダーに関する違和感への問いかけを決めてスタートしました。元々はクイアのためのクイア雑誌を作ろうと思ってたんですけど、「クイア雑誌」と言ってしまうと、結局クイアを自認してる人にしか届かないっていうのがもったいないなと思った。クイアと自認していなくても、クイアな要素は誰でも自分の中に持っているものだと思って、でもそれを肯定できなかったり、見えないようにしたりとか、見ないことを強要させられたりする社会の中で、自分の中に持ってるクイアの要素を肯定することってすごく難しいと思って、そこを掬ったりとか、自分の性自認だったり、セクシュアリティに対して違和感はなくても、シスジェンダーでヘテロセクシャルでも自分に課せられる男らしさ女らしさに対して違和感を感じてる人たちっていうのもたくさんいるし、その人たちのこともしっかり掬ってあげられるような雑誌にしようっていうので、「クイア雑誌」っていう標章はやめて、「世の中の当たり前に違和感を感じる人たち」と一緒に作るっていう雑誌として生まれました。
2号目は「愛情」というテーマで、既存の愛について話すとき異性愛が大前提で恋愛至上主義な場面が多い中で「それだけが愛情の形とされているのって変じゃない?」っていうところからスタートしようという感じで始まったんですけど、でも「愛情とは何ですか」と言われても僕自身全然分からなくて。すごい抽象的だし、「愛が何か」って悩んでいた時でもあったから「愛ってなんだよ」みたいに思ってた。かつ自分たちがこう生きていく中で、僕はノンバイナリージェンダーを自認していて、マセクシュアルっていう男性を好きになるセクシュアリティなんですけど、僕の身体は男性だから、結局、はたから見たら男性同士の恋愛として見られることがすごく多かったし、それが認められない社会や制度に対してやっぱりすごく苦しんだりとか、いろんなものを諦めたときもたくさんあった。そういうことに対して「それって当たり前のことじゃないよ」っていうのを伝えるために2号を"愛情"というテーマにしました。
その中で”STUDY OUR ISSUE”っていう特集があって、今日本に起きてる現状だったり、制度的な部分が一体どうなってるのかという部分を専門家の人たちにお話を聞くページなんですけど、例えば足立区議員の差別的発言に対して、それがあった後に、足立区はすごいスピードでパートナーシップ制度を導入したんですね。それに対しての解説を宗嗣さんがしてくれて、今回は「愛情と制度」っていうところについて、一緒にいろいろお話できたらと思っています。
松岡)なんか今までの話だけですごいストーリーですね。ちなみになんですけど、「クイア」という言葉は皆さん、わかるよっていう人もいればちょっとよくわからないという人と両方いらっしゃると思います。クイアという言葉はまだまだ日本で知られていないところでもありますよね。
Kotetsu)クイアというものがざっくり言うと、LGBTQ+を総称した名前(包括的に表すこともある)なんです。LGBTは日本ですごく多く使われると思うんですけど、「LGBTって、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのことだけ」と言われることもあって、本当はセクシャルマイノリティーってもっと多様であります。もともと「クイア」っていう言葉が、アメリカで差別的な用語(直訳=奇妙な)として使われた言葉で、それこそ違和感を感じるものに対して使われる言葉だったんですけど、それを当事者たちが自分たちのエンパワメントとして自分たちのコミュニティを守ることで、使われ始めた言葉です。
松岡)いわゆる「あたりまえ」や「ふつう」と呼ばれるような規範に対して「ふつうじゃなくて何が悪いんだ」っていうようなニュアンスを含んでいますよね。
結婚と制度
松岡)私はシスジェンダーのゲイの当事者で、パートナーと6年ぐらい付き合っていて、でも今東京で住んでる家は書類上は友人というステータスになっています。今、法律上同性のカップルっていうのは婚姻ができない状況なんですよね。なので、例えばパートナーが病気になったときに、病院に行っても、手術の同意とかができないんじゃないかとか、例えば財産を相続できなかったりとか具体的な不利益がある。やっぱり制度として保証されることって大事なんじゃないかと思っています。その流れの一つとして「パートナーシップ制度」というものが近年広がりつつあるのかなと。特に2015年に東京都渋谷区・世田谷区からスタートして、法的な効果はないんだけれども、自分の自治体の中に性的マイノリティのカップルがいて、2人が結婚に準ずるような関係性ですよと認証する制度なんですね。名古屋市とか愛知県はまだないんですけど、近いところだと、愛知県内の一部の市で導入されていたり、今年9月から三重県でも導入予定です。100以上の自治体で導入がされていて、今後も広がっていくと思います。
パートナーシップ制度の話をしようかと思ってたんですけど、今Kotetsuさんの話を聞いてすごいそうだなと思ったことをまずお話したいと思います。、やっぱり「愛情」っていうものを考えるとき、いろんなメディアとか語りとか、それこそ学校の中での会話とか、親とか、またはYoutubeの中とかそういったものから、私たちはいつの間にかさまざまな「規範」を吸収してると思います。こういう活動をしていて最初は自分はやっぱりゲイの当事者として「何で異性カップルは結婚ができるのに同性カップルは結婚ができないんだろう」っていうことだけを考えていたんですね。「いろんな愛があっていいじゃん」「Love is Loveだよね」みたいなのを思ってたんですけど、どこからかやっぱり「おや?」と思うことが増えてきて、やっぱりそれは他のいろんなジェンダーやセクシュアリティの人たちと出会っていく中で、例えばアロマンティック・アセクシャル(アロマンティックは、他者に恋愛的に惹かれない、アセクシャルは、他者に性的な関心が向かないなど)と呼ばれる人たちがいたり、いろんな性の在り方を考えていくうちに、いわゆる"ロマンティックラブイデオロギー"と言ったりしますけど、(基本的に)男女が恋愛をして結婚をして子供を持つっていうことが”王道”で、それが「すごい素敵なこと」で、「何より良いことだよね」というふうにされていて、実はその自分たちの考え方とか、日ごろの話し方だけじゃなくて、様々な社会制度がそれを基準にされていると気づくことができたんですね。ただ同じ性別の人を好きになるということで制度から抜け落ちるというものもそうですけど、じゃあそもそもなんで2人だけでそのパートナーシップを結ぶことっていうのが優遇されて、その関係性のみを”良いこと”だとするんだろうとか、恋愛感情じゃないけど、自分にとって大切な親友と将来的に財産をわけあったりとかすることでいいんじゃないか、とか、そういうようなことを考えていく中で、やっぱり「愛」というものが、何となく情緒的な「愛情っていいよね、楽しいよね、素敵だね」っていうものだけにとらわれない社会の中で作られた仕組みになっているかということをすごく感じます。
Kotetsu)古賀さんは結婚されているんですよね。僕の周りも今年入ってから、一気に結婚する人が増えてきて、最近毎回「おめでとう」が言えないんですよ。友達が幸せなことはおめでたいし、よかったねって思うんだけど、でも「なんで結婚したの?」って超疑問が生まれて「そこはわからないでおめでとうを言えなくない?」みたいなふうに思って言えないんですけど。結婚することがおめでとうと言われて結婚しない・できない人たちはそのおめでとうもらえないんだ、みたいなすごい複雑な感じなんですけど、だからすごい純粋な疑問。なんで結婚されたんですか。
古賀)展示のドキュメンタリー映像でも結婚についての質問があって、なんで結婚したんだろうなって思って考えてたんですけど、私、名古屋の人と結婚して1年ちょいなんですけど、その前は東京で働いていたんです。名古屋で本屋の準備したいなというのと会社続けられるかな、みたいなのがあった中で、パートナーと話し合って結婚することで名古屋に戻ろうという話になったんですよね。結婚するといろいろな優遇措置があると思いますけどまさにそのとき制度だなって思ったのは「結婚を理由に地元に戻るので会社を辞めないといけない」という事由だと自己都合退社では3ヶ月待たないといけない失業保険が、すぐもらえるんですよ。親が市役所で働いていて、名古屋に帰ることを相談したときにそういう制度があるよって教えてもらって、結婚の時期も申請に合わせて婚姻届を出そうみたいなので、バリバリ制度を使った結婚なんですよね。
松岡)戦略的ですね。
Kotetsu)めっちゃよくないですか。
松岡)結婚制度を考えるときに、なんとなく「恋愛のゴールだよね」っていう考える人ももちろんいるだろうし、一方で今みたいに制度的な保障とか安定を受けたいというニーズだったり、様々あると思うんですけど、やっぱりさっきの「なんで」っていうのはつまり、「なんでその結婚というものにそれだけの特権が与えられているのか」っていう問いだと思うんです。やっぱり男女が2人で結婚して、もし万が一何かがあったときに、二人の関係をサポートする制度があるんですよね。例えば、実際名古屋のケースなんですけど、同性カップルの片方が殺害されてしまったっていう事件があって、そのときに犯罪被害者っていうのは給付金をもらえる制度があるんですよ。これは結婚している異性カップルも結婚してない事実婚の異性カップルももらえるんです。パートナーが殺されてしまったときに、その精神的被害とか経済的被害に対してサポートするっていう、これが同性カップルだと受けられないんですよね。残されたパートナーがいま訴訟を起こしていて、地裁では負けちゃっているので、今、名古屋高裁で争われています。他にも例えば、もし外国籍のパートナーと付き合っている場合、例えば男女の場合だと、結婚していれば、「日本人の配偶者等」という在留資格がありますこれは同性カップルだと、結婚できないのでそういうビザがないんですね。どうなるかっていうと就労ビザなどで過ごすことになるんですが、もしコロナの影響でクビになっちゃったりすると、その瞬間二人は離れ離れにならなければいけないとか、実はそういう異性カップルの結婚というものに、制度的な安定性とかがたくさんついていて、実は結婚制度というのは、さまざまな権利や義務のパッケージみたいなものとも言えるんですよね。
Kotetsu)たしかに、僕は今はパートナーがいないから、関係性においての保証みたいなものは必要ないんですよ。でもパートナーいたときは、そのパートナーがアイルランド人で彼も日本に来てたから、ワーキングホリデーのビザで来てて、就労ビザ取ろうかなって言ってたんですけど、そのときにはやっぱもう結婚できるんだったらしちゃいたいってすごい思ったし、結婚してビザやるよみたいなふうに思ってたし、でもそのとき僕の中では、「好きだから結婚したい」っていうのは全くなかったんですよ。でも彼のこと好きだから、彼が日本にいたいと思うんだったら日本にいてほしいから、それを結婚することでその権利を与えられるのであれば、全然結婚しようっていう感じだったんですけど、でも結局その選択肢ってのは僕に与えられていなかったし、そのときくらいから僕がその自分のジェンダーアイデンティティがノンバイナリーだなって気づき始めたタイミングだったから、なんかこう、男として、結婚するのも嫌だったんですよ。役場とか、もう本当にいろんなところへ行くたびに男女の選択をさせられるんですけど、今日もホテル泊まっているんですけど、ホテルで一番最初に書く性別欄とか。
松岡)要らないですよね。
Kotetsu)要らない。書かなくて普通に出したら別に何もないんですよ。でもその役場とかになったらそれがダメな可能性もあるし、結局そこで戸籍には男って書かれてるから、それを使って結婚するっていうのが何か例えば同性婚が合法化されたとしても、Kotetsuからすると同性婚ですらないから、それももうちょっとその結婚っていう同性婚からまた次のステップかもしれないけど、結婚みたいな制度を受けられる2人っていうのがどういう定義付けになるのか、という部分は声を出さないと反映されないまま同性婚が合法化され、それでおしまいになっちゃうのがめちゃ怖い。
松岡)本当にそうです。婚姻届って「夫になる者」「妻になる者」みたいな感じで書かれてますよね。海外で同性婚が認められてる国だと、それこそ親の表記の仕方とか結構議論があって、例えば今だと「母親」「父親」と表記されるけど、例えばそれを「親1」「親2」とか、そういうふうに変える議論がされていたりします。、これは別に母や父という呼び方を消滅させようっていう意図では全然なく、母と父の場合もあれば、母二人や父一人の場合もあり家族あり方はさまざまなので手続き上そうしましょうということかと。実態に合わせた制度変更ってのはすごい求められるなと思います。
クイアとLGBTQと本屋
Kotetsu)数日前、自民党本部前で行われた活デモに僕も行ったんですよ。そのデモの説明と、自分たちの権利であったりとか制度だったりっていうのを変えるときに、どういう動きをしていくことが必要なのかっていうことを話してほしいです。僕も今回取材をして初めて、しっかりと声を伝えないと変わらないんだっていうことをすごい実感して、手紙だったり実際にその場に行って伝えるっていうことをしないと、ネット上で声を上げててもうなかなか届かない。ネット上で伝えることももちろん大事ですけど、もっと物理的な伝え方っていうのも必要だというのは初めて知りました。
松岡)そうですよね。例えばですけど、地域の条例とかって、皆さんどれぐらい知ってたりしますか。
例えば三重県では条例で性的指向や性自認に関する差別的取扱いを禁止しています。他にも豊島区では、アウティングと言って、本人の同意なく第三者にその人の性のあり方を暴露することは駄目ですよということを条例に規定されています。実際に豊島区に働いてる20代のゲイの当事者が、上司にアウティングされ、同僚から無視されるようになり、結果的に精神疾患になり退職してしまったという事例があるんですけど、本人が豊島区に申し立てをして、区が間に入って斡旋をして、企業が謝罪しています。自治体のレベルでも国のレベルでも同じなんですけど、例えば性的マイノリティに関する困難をどうにかしようってなったとき、意識のある自治体の議員さんとか、国会議員さんとかが、この問題ちゃんとやろう、みたいに言い出してくれると良いですけど、残念ながらマイノリティーのイシューってそういうふうに認識してもらうことは難しいんですね。皆さんご存知の通り、ほとんどがシスジェンダーヘテロセクシャルの年配の男性たちが中心なので。。性的マイノリティもそういうときにやっぱり「私ここにいるよ」って言わないといけないし、困りごとがあることを伝えていかないと変わらないんですね。それにはいくつか方法があって、一つは選挙ですよね、選挙に行って政策に掲げてくれている人を送り出す。または、裁判を起こすっていうのも一つありますよね。こういう問題があって自分が不利益が起きてるんだってことを訴訟に起こすとか。例えばパートナーシップの話をすると、今まさに愛知県とか岐阜県にパートナーシップ制度を求めようという動きが起きていて、まずは当事者の声を集めようということで、愛知県と岐阜県にゆかりのある当事者の人たちの声を集めて、どういう困りことがありましたかとか、どういう制度を求めてますかっていうことのアンケートを実施して、それを要望書にまとめて、それぞれの自治体の首長に渡しにいったり。でそれを実際に見て聞いて、これやった方がいいねっていうふうになると、そこからじゃあうちの自治体ではこういう条例作りましょうなどとつながっていったりするんですよね。
Kotetsu)僕、大学生のときから一方的に宗嗣さんを知っていて。僕が大学生のときとかって、LGBTQのサポートとかNPOとか調べてみると、数が限られたんですよ。その中で宗嗣さんずっと活躍されてて、事例を探したりすると宗嗣さんの名前めっちゃ出てくる感じだったんで知ってるんですけど、だからそのときから結構、しっかりした制度だったりとか、ちゃんと自分たちと制度の関わりみたいなものに対して、しっかりとアプローチをする動きをされてるなと思っていて。でも僕はそのときはすごい、実際に制度とか、例えば役場とか、そういう場所にアプローチをかけていくことって、なんかすごい小難しいものだって感じていたし、結構距離感を感じてたんですよ。だから本当にすごいなって思うのと同時に、自分はこれできないなって思っちゃったんですよ。だから自分はそういう方法ではなく、アートだったりカルチャーから、しっかり伝えていこうっていうふうに思ったんですね。古賀さんとかは書店っていう、媒体を持って、地域だったりとか、本屋さんができることってどういうことだと思いますか?
古賀)いろんな本ありますよね。で、「これ面白い」とか「こういう問題知った方がいいよな」とか、そういったものを伝えられるのって、本屋というメディアだなと思っています。そして本を直接個人に届けるものっていうのが、やっぱり本屋の良さです。私自身そういう何か賛同はしてもそれを一つの力としてカウントされるにはどうすればいいんだ、というのはすごく思っていて、例えば私は性的にマジョリティの方なので、どうしたらこの中で思いをジョインさせれるんだろうっていうのは考えています。調べたらFAX送りましょうとか、やっぱそういう見えないもの見えるようにするっていう部分はすごく必要ですよね。でもその情報もキャッチしようとしないと、やっぱどうしてもわからない。そういうものを可視化できる場所として、本屋っていうものを機能させていきたいなとも思っています。
Kotetsu)この場が、今まであった本屋さんの定義とかあり方みたいなものからアップデートされた場だなって思うんですよ。もちろん選書されたものもそうだし、こういう場をを開いてくれたりとか、来てくれた人とその本の作り手だったりとか、古賀さんとしっかり交流しながら、意見とか思いを共有する場を作るって、もしかしたらもともと本屋さんが担っていたものではなかったのかもしれないけど、それがすごくアップデートされた形で今あるなと思うんですけど、何だろう、いわゆる本屋さんの形から、何かそこにとどまらなかった何かがあるのかな。
古賀)元々私は出版取次っていう大きい出版の流通になってる会社でもので働いていたので、基本的にマスの世界をどうするか、全体最適を考える会社だったんですよ。やっぱ個人で独立して本屋やる人ってマスへのアンチっていうか、そういうものがあるのかなと思います。
松岡)メインストリームに対するという点ですね。クイアと通じるものがありますね。
古賀)そうそう。そう考えると通じるものがあるなと思ったんですけど、やっぱりテレビで放映されたものがパーッと売れてそれをどう仕入れるかみたいな。
松岡)鬼滅の刃でたー!みたいな(笑)
古賀)小さい本屋は、例えば村上春樹の新刊みたいな大物が10冊申し込んだのに1冊しか入らないみたいなものがあったりとか。それはやっぱり売上が高い大きいお店に置いた方が数が売れるから。お客さんの注文であっても取りづらいっていう仕組みが、それも制度みたいなんですけど、出版業界の仕組み上、小さい本屋にはそういう本が入らない、だから選書や棚づくりで工夫するしかないっていうのはずっとあります。
松岡)
フェミニズムの重要な言葉の一つに「個人的なことは政治的なこと」っていうものがあるじゃないですか。これまで個人的なことされてきた困難が「大きな物語」から見落とされていく。でも、そういう個人的なことっていうのは、ものすごく制度とか、政治的なものと繋がってるんだっていうことをよく感じていて、見落とされがちな”個人的な問題”について語られた本が本屋さんに置いてあるというのも大切なんじゃないかと、そして同じくコミュニティっていうのはすごく重要だと思うんですよ。
例えば、LGBTQという言葉もそうですが、レズビアンもゲイもバイセクシュアルもトランスジェンダーも全然違うんですね。例えば自分はシスジェンダーのゲイで、男性としてはマジョリティなので、例えば今団体作ってるんですけど団体作るっていうときに応援されやすかったとか、これは多分自分が女性として生活していたら「大丈夫?」とか「そんな声を上げちゃっていいの?」みたいな、そういう後ろ指されてたかもしれないなとか。一方でゲイって部分で言うと「ホモ気持ち悪い」とか言われるみたいな、そういうアンビバレントな思いがある。例えばこれはレズビアンの女性はまた違うよねとか。だけども、性に関する”普通”とか”当たり前”とか規範から外されて困難を感じるときにときに、この自分1人だけ声をあげてもやっぱり届かない。個人的なことは政治的なんだけど自分だけが声上げても変わらないときに、やっぱりコミュニティーの力ってすごく重要になってくる。そのチーム名的に、LGBTQ+という言葉が生み出されていった側面もあると思うんですよね。だから本屋っていう場はまさにメディアであって、取りこぼされた声を伝える場所としてすごく重要だと思うんですけど、そのときにやっぱり来た人が何か自分の中の個人的なモヤモヤとかがリンクする本に出会えたり、自分が当事者ではないけど自分の関心がある何かやそういう近さを感じるなと思う物語に出会えて、そこから繋がっていって、まさに今回のような場とかが作られていってコミュニティになっていくと。その声が今度は次そのメインストリームに対して届きうる可能性となってくることを日々、感じています。だから自分の個人の物語って、行政や制度とは遠いし何すればいいんだと思って、すごく大きなことから始めなきゃと思うこと多いと思うんですけど、例えば、「まず隣の人と話す」ということでも良いと思うんです。今日ここであったことを関心がなさそうな人と話してみるとかとか、例えば性的マイノリティに対する認識は年代の差によってすごく意識が違うことがあるので、もし自分が当事者ではなくて何か言われても傷つかないという可能性が高いなら、あまり理解がなさそうな人とかにLGBTQの話とかをして「そんなものは気持ち悪い」とか言われたら「ちょっと待って」と議論をしてみたり、そういうのってすごく重要だと思います。
Kotetsu)今の話の、いろんなところに、いろんな話をしたすぎて、どれ話そうかってなっていて、今!
セクシュアリティとコミュニティ
Kotetsu)自分の地元の本屋さんにフェミニズムだったりクイアについての本がこんなふうに置かれてたら、それを自分が学生の時とか今みたいに肯定できていないときに見たらすごい安心できたと思うし、その時って今だったらクイアは自分だけじゃないってわかるから、自分でコミュニティつくったりとかコミュニティに入っていったりとか、コミュニティにアクセスすることができるけど、当時って全然できなかったし、もちろんWEBも発展途上でアプリとかも全然なかったから掲示板で闇みたいなところでアクセスして当事者に会う、みたいな。会うというところまでハードルが高かったし、自分の存在っていうのを肯定したり受け止めてくれる場所っていうのが物理的にも精神的にも全然なかった中でもしこういう本屋さんがあったら、泣いてたと思う。ここに居場所を感じると思うし、それが地元の書店さんで自分で選書をしているってなったらここの選書をしてくれているお店の人は自分のことを受け止めてくれるかもしれないって、話さなくてもそこからのメッセージとして伝わるってすごく思ったのと、コミュニティの話がめっちゃしたいなって思ったんですけど、宗嗣さんは自分がセクシャルマイノリティだなって自認し始めてからどこのコミュニティに居心地の良さって感じました?
松岡)昔だと、ゲイ雑誌とかレズビアン向けの雑誌を買うときに、買いに行くことがすごく恐怖だったりして、大して興味ない別の雑誌を買ってその後ろにスッと入れて、レジに持っていって、するとレジの人がめっちゃバン!って裏返しちゃって...ということがあったと聞いています。でも実際それでレジに持って行けなくて万引きしたことがバレてそのまま自殺してしまったという事件も起きて、そこからは状況が改善したりインターネットが出てきたのは大きいですよね。自分の場合はやっぱり最初掲示板とか、スマホを持ってからはTwitterとかでまずは繋がっていくということがありましたね。でも、やっぱり自分の経験を振り返っても、学校ではカミングアウトできなかったので、でも嘘つくのは嫌だったから、ちょっとホモネタみたいなのを自分で言ってる感じで周りからするとゲイキャラみたいな感じで。ホントは異性愛者だろうけど、男性同士でイチャイチャしてるのをネタとしてやってる奴みたいな感じだったんですけど、でも、実際ガチなの?って聞かれたら、冷や汗ダラッダラになりながら嘘でごまかして、みたいなのを中高でずっとやっていて。でもその間もオンラインで繋がっている同じセクシュアリティの人とは栄とか、学校の友達とは会わないであろう雑多な場所で会うとかありましたね。そこで同世代の子と繋がったりというのはあった。やっぱりそこに一人じゃないんだなと思えることのエンパワーってすごくあるんだなって思った。これがずっと一人だなって思っていたら、どうしようっていう風に思ったかな。そこから情報って知れば知るほど「ああ、名古屋より東京の方が色々あるんだな」とか思ってきて、いつの間にか東京に行きたいなと思うようになって、高校に入ったくらいから大学は東京に行こうと思って大学から上京しました。
Kotetsu)僕の話をすると、僕はゲイコミュニティに居心地の良さを全く感じずにいて、でもそれは今だったら自分はノンバイナリーだからってわかったんですけど、当時は自分のこと男でゲイだと思っていたから、ゲイコミュニティに入れば居心地の良さを感じ、仲間だと感じられると思っていたけど、二丁目で友達とかできると、みんなとりあえず酒飲んで踊り狂って、もちろんKotetsuもそれするけど、でも、そういったときにそこに居心地の良さを感じられなかったり、結局ゲイコミュニティってそこで恋愛をするってなったら男を求めるから、元々自分はフェミニンな容姿をしていていわゆるゲイのモテには含まれない、かつ向こうから男を求められると、男じゃないから「ん〜」みたいな、かと言って女として扱われるのを望んでいるわけでもないからめちゃめちゃ困るな、みたいな。これは一体なんなんだろうとずっと感じてきて、どこにも居場所みたいなものを感じられなくて。結構シスヘテロの子たちとの方がすごく居心地が良かったんですよ。なかなかクイアのコミュニティに居心地の良さをあまり感じないなというのを感じていて。もちろんそれは人それぞれだし、自分の居心地の良い場所を見つけたらいい話なんですけど、一種、人ではなくて、場所や時間に居心地の良さを感じることはあるのかもなと思ってそれはクイアだけではなくて、シスヘテロの人たちもきっと自分のいるコミュニティに居心地の良さを感じられない人たちでもそれこそ書店だったりクラブだったり時間を共有する場所に心地よさを感じることができればそれはあっていいのかなって思うし、でもどこかでコミュニティを求めている時もあるし、一緒に連帯して戦いたい時もすごいあるし、っていうコミュニティの話。
松岡)いわゆるLGBTQと括られている中でも、マジョリティとマイノリティが生まれてしまう部分があったり、枠を作れば誰かを見落としてしまったり。例えばレインボーフラッグは6色のレインボーが使われていますが、最近では、黒と茶色や、ピンクと白とブルーが入った「プログレスプライドフラッグ」が使われる場面が増えているんです。なぜかというと、、レインボーフラッグは、LGBTQと言いながら、実はいつも中心として扱われるのは白人のシスジェンダーのゲイばかりだったりする。。なんでかっていうとマイノリティとして声を上げようと言ったときに、声を上げられやすい場所にいるのがいつも白人のお金のあるゲイの当事者だったんですね。一方で、例えば黒人のトランスジェンダーの人の話って全然掬い上げられなかったりしているんですよね。それを反省して前に進んで行こうっていうので一つ生み出されたのがこういうフラッグです。コミュニティを作ってもその中で主流派とそうではない人たちが生まれますよね。このヒエラルキー化することってどこにでもあるものだと思う。(こちらのサイトからフラッグか確認できます。(こちらのサイトからフラッグか確認できますhttps://www.outjapan.co.jp/pride_japan/glossary/ha/7.html)
デモとアートとカルチャー
Kotetsu)制度的なものとアート的なもので分かれているわけではないけど繋がっているものって、僕がその制度とかに対して闘ってくれている人とかだったり活動してくれている人たちを見ていて思っていたのが……すごく失礼なこと言いますね……あの、「ダサいな」って思っていたんですよ。ビジュアルがね。「ビジュダサくない?」とか思っていて。ホームページだったりとか、バナーとか、”いわゆる”すぎて。もちろん”いわゆる”だから伝わる部分もあると今はわかるからダサいとは思わないけど、近いものとは感じられないデザインがされているなと思っていて。それこそレインボーとか、超個人的な話なんですけど、レインボー好きじゃないんですよ。でも、歴史的な背景があって、一つ一つに意味があるから支持はしているけど、レインボーのグッズとか身につけたくないし、とか思ったときに、そこに対してアートとかカルチャーでしっかりクールにどれだけ伝えられるか、みたいな、そこは同時並行でやっていきたいって思っていたんですよ。宗嗣さんとかが制度に対してしっかり向き合ってくれている分、アートとかカルチャーでみんなの意識を上げたり敷居を下げたりとか、そういう活動をしていきたいなとずっと思っていて。でも最近すごい思っているのは、やっぱりどっちもやらなければならないと思って。
今までデモは行ったことなかったんですけど、つい先日の自民党議員の差別的な発言に対して、その差別的発言の撤回を求めるデモを企画してくれて抗議デモというものに初めて参加したんですけど、やっぱりそこの場にいくことで一つの目的のためにいろんな思いを持った人たちが集まってしっかりとそこに対して声を上げることを目にしたときに、初めてそあそこに同じコミュニティを感じたんですよ。本当にあの発言に対して悲しみだったり怒りを感じているのが自分だけではないって実際に目で見ることで、実際にその人たちの声を聞いて熱量を感じることですごい安心して。今まで分けて考えていたけど、しっかり融合して考えていかないといけないと思った。融合することで大きな力になると感じるようになって。それぞれ力だったり知識だったりのスキルを持っていて、そこが連帯することでここだけではなく融合することで、大きなエネルギーを作っていけるんだなっていうのがこの前のデモですごく感じたんですよ。
松岡)わかります。自分もずっと、ダサいなと思っていた派だったんですよ(笑)
松岡)「デモっていつも怒っているし、怖いし、そんなんじゃ伝わらないよ」って昔は思っていて。そう思っている人の気持ちもわかります。ひとつ役割を分けることも重要だと思うんですよね。とか、デモも重要だし、そうではない場所や手法で声をあげていくこともどっちも重要だと思っています。気づけた一つのきっかけは、やっぱり過去になにが起こったかを知ること、歴史を知るということかなと思います。例えばプライドパレードというのは元々ニューヨークの「Stonewall inn」っていうゲイバーに警察が踏み込み捜査をしていたときに黒人とかラテン系のトランスジェンダーを中心に、警察に対抗して反乱がおきたのがきっかけだと言われていて、この蜂起を祝うために、、プライドパレードは毎年やられているんですね。これを知ったときに、この時の怒りの声とかがなかったら自分たちの権利ってどうなっていたんだろうと思ったり。それこそ女性の参政権は数十年前までなかったし、例えば現代でも身近なところで言うと学校の名簿欄。男性が前、女子が後ろになっていたりする学校まだまだあると思うんですが、やっと混合名簿になったりとか。でもこういうのが先人たちの活動によって徐々に平等になっていったときに、いろんなアプローチがあったわけですよね。怒らなければいけないときに怒り、怒っているばっかりだと怖いなって思う人もいるから、敷居下げて楽しい場所もありますよっていうことをやっていく。この役割分担の分け方っていうのはすごい大事だなって学んでいます。 だからダサいなっていう気持ち、すごいわかります。(笑)自分も今、人によっては「いつも怒ってんな、ヤバいやつだな」って思われているんだろうなって思う時もありつつ、でも一方でそういう人に対してそれを否定するつもりもなく、その気持ちも大事だし、一方で今自分が上手く生きられているとしたらいろんな人の命だったり声だったりいろんな活動の上に生きているんだよって思っています。けどこれを当時の自分に言っても伝わらないだろうなと思います。(笑)
kotetsu)そうかな?!
松岡)当時の自分だと「言ってることはわかるけど」みたいになりそう。それはやっぱり経験とか、本読んだりとか心に来るストーリーとかに出会えると「そうか」ってなるかも知れないけど、そういうときに必要なのがアートの力だったりするのかも知れないですよね。理性的に渡すよりはアートとかコンテンツとかが必要だなと思います。
Kotetsu)でもそれも、一回やってみたり見に行ってもいないのにそっちのこと「ダサいっしょ、自分らこっちでやるから」って言ってるの、当時の自分にも「あんたそれもダサいからね」って言っちゃう。
松岡)それは何事にもそうですね。
Kotetsu)本当に行って良かったと思ったし、じゃなかったらずっと抗議デモに対してちょっと「差別を差別で返してるのと一緒じゃん」って思いながら生きてきたかも知れないし、でもそうじゃないっていうことがあの場に行ったらわかるし、本当にどうやって今デモだったりそこに来ている人たちの思いっていうのをみんなが受け取っているイメージと差があるっていうのをちゃんと伝えられるか、この人たちの思いをどうやったら伝えられるかって言ったら、それこそアートとかカルチャーが入っていけるポイントなのかなっていうのはめちゃめちゃ思いますね。
松岡)Kotetsuさんがデモで話していたことがすごく印象的に残っていて。「初めてここに来たときに来ようか迷ったけど、自分はここに来るか迷える立場にいるんだ」と言っていたのをすごくまさにだなって思っていて。例えば自分はさっき話した通りシスジェンダーのゲイなので男性という意味では優位だけどゲイの部分がマイノリティだという話をしたんですけど、それ以外にもいろんな人生におけるラッキーだった場面とか立場の特権性とかあるなと思っていて、それを思ったときにある種、声を上げやすい立場にいると思うんですよね。今本当に苦しい当事者の人たちは今声を上げる余裕なんてないと思うんですよ、今日明日生きるので精一杯って言うときにもちろんその声を代弁することなんてできないんですけど、一番この場の中で誰がいない、誰が追いやられているんだろうかとか誰がここからこ排除されようとしているんだろうか、とか、そういうことを想像して一番社会から外されそうになっている人たちにちゃんとセーフティネット張られるようにするためにできることなんだろうと考えると、やっぱりその場に行って声を上げること自体を選択できる場所にいるんだということを自覚することはKotetsuさんの話を聞いて確かにな、と思いました。
古賀)小さな声に耳を澄ます、ですね。宗嗣さんの著書の『LGBTとハラスメント』の中で「自分に当てはまる「名前」に出会えること」について記述がありましたけど名前をつけることで「いなかった」とされる存在を見えるものにすることも言葉によるエンパワメントだと思いましたし、自分には何ができるだろうということを考えさせられました。
Kotetsu)ノンバイナリーという言葉でさえ、その存在はずっといたはずなのに、ここ数年でできた言葉で、突然ノンバイナリーとしての意見を求められたりした。その存在は最近できた概念ではないから、言葉が最近できただけであって、でもそれができたおかげで自分たちの存在は今まではないものとしてされてきて、ちゃんと証明されるようになってきたっていうのは、言葉の力が大きいなと思う。
質問:僕は前の仕事が教員で、教育現場では男女分けというのは違和感だけど、管理しやすいのは事実。教育は時間はかかるものだとは思うけれどその先の子どもたちを変えていくものだから大切だし、教員はどうしたらいいのかわからない人が多いと思うのですが、アイデアありますか?
松岡)私はまさに大学時代から学校の現場を廻ってLGBTQの話をしにいくっていうのをしていて、今も時々やっているんですけど、その一環で名古屋でも呼んでもらって学校で先生に向けてというのもありますし、全校生徒に向けてというのもやっているんですね。で今までの話と全部リンクするんですけど、呼んでくれるところって、すでに意識のある先生がいるから呼んでくれるんですね。その先生がいればもしかしたら「この先生だったら言えるかも」とセーフティネットになるかもしれない。それももちろん完璧ではないけど、問題なのは誰もその意識すら持っていないとき。やっぱり自分は制度が重要だと思っています。それを学校におけるものだとすると、先生が意識があろうとなかろうと学習指導要領の中で多様な性について記載されていて、まず知識を得られるようにするとか。でも、制度が変わっても、一人一人の認識が変わらないと現場の雰囲気なかなか変わらないですね。そのときに先生たちには実感値として性的マイノリティは近くにいて生徒の中にも当然にいて、そこでまずコミュニケーションとってもらって、そういうところに困るんだねって自分の中の当たり前を疑ってみる作業が必要になってくるんだと思います。
で、さっきの現場の先生たちが男女別だと管理しやすいって話あったじゃないですか。それはよく制服の話でも出てくる話なんですよね、例えばトランスジェンダーの生徒が大変だから制服を自由化しようとしたときに、先生としては困っている生徒を考えて自由にしたりとか制服を選べるとかさせてあげたいけど、そのときにもう一つの観点が出てきますよね、それは何かというともし制服を自由化しようとしたら私服によっていじめられる子が出てきたらどうしようとか、個人を尊重しながら全体の話を考えないといけない。そういうとき、大きい話ですけど、憲法とかいわゆる人権とかそう言ったものに立ち返る必要性ってすごく感じていて、いわゆる学校現場もそうなんですけど、人間関係ってなんでもパワーバランスが生まれちゃうじゃないですか。上司と部下とか、生徒と先生とか。友達でも体が大きいか小さいか、とかで。そのとき、パワーの大きい人は、その人を管理しやすい立場に常にあるんですね。そう言ったときに憲法とか、今この社会で大切にされている基盤の中には「誰もが平等であって誰もが尊重されるべきだ」と謳っていると。そこに立ち返ると、「あれ、なんでこういう風にこの子は表現したいのに、させてあげられないんだろう」っていうふうになっていくと思うんですよ。例えば「なんでこの子は地毛が茶色なのになんで黒染めしないといけないんだろう」というのも一つだと思います。そういうもののルールの線引きというものを考えるときに本人を尊重したいという気持ちと全体を管理しないといけないという気持ちがぶつかるときに、どうしても「管理」が勝ってしまうことってよくあると思うんですよね。そういうときこそ、一回その根本の原則の部分に立ち返る必要があって、誰もが平等ってどういうことなんだろうとか、誰もの人権が尊重されるってどういう状態なんだろうと考えること、で、だぶん本当に全ての人権を尊重するときに衝突することって必ず起きるんですよ、その時の対応は高度な現場の対応が問われるんですけど、やっぱり原則に立ち返ることを考えるとより建設的な議論になると思います。
質問:名古屋のパートナーシップ制度はどういう状況?
松岡)河村市長は前からパートナーシップ制度を2021年度中に作るよ、と言っていたんですけど、なかなか進んでない現状ですね。
古賀)市民活動としてはなにが効果的でしょうか。
松岡)地元の議員さんにお手紙書くことも重要です。例えば「自分の友達に当事者がいて」という話でも良いんですが、地元の有権者から声があるということは票を持っている人からの声ということで直接届きやすいです。
質問:ジェンダーとファッションはつながりがすごく深く、REINGの下着を実際にLGBTQの人たちは着たいと思っているのか。また、ジェンダーフリーな服を作るブランドは企業アピールのためだと疑ってしまい、本当に需要があるのかが知りたいです。
Kotetsu)まずREINGのアンダーウェアについてはLGBTQ+向けに限られたプロダクトではなく、自分らしくありたいと願うすべての人に向けられたものですが、当事者にもめちゃめちゃに支持されています。それはブラジャーもパンツもどのアンダーウェアもサイズでしか表記していないから、まず男女で二元論で分けていないのが大前提であるのと、ビジュアルを作る際に、クイアだけに届くものではなくて誰にでも届くようにすごくキャッチーで、今活躍されているフォトグラファーだったりとかモデルさんを起用して、そのモデルさんたちも当事者をなるべく入れて、作り手もクイアがいてっていう本当に様々な人の声から生まれている。色を決める際にもREINGが持っているコミュニティがあるんですけど、そのコミュニティで新作の色はどれにしようっていうワークショップを開いたりとか本当にどれだけ使う人たちの声を反映させられるかというのをすごい時間をかけて作っているので、多分あのプロダクトに関しては支持されているし、着たいと思うし、着心地もいいし、なるべくプラスチックフリーな梱包をっていうのもすごく意識して作られているので、プロダクトとして素敵なものだと、僕は思っています。
他のジェンダーフリーだったり、ジェンダーニュートラルな商品に関しては、僕もそれ思います。「絶対嘘だ!」「言うてるだけやん!」て思うものあるし。自分たちの思いで作っていないものはわかる。バレちゃうブランドは着たくないし、これも人それぞれだと思いますけど、プロダクトとしてかわいいものは着たいかも知れないし、意思みたいなものに共感して買いたい人もいるし、どっちかとは言えないですけど、僕はその意見に共感しています。
松岡)流行りなんじゃないかと言う目で見ちゃうのめちゃくちゃわかります。例えばレインボーフラッグもそうなんですけど、プライド月間でいろいろな企業がレインボーグッズ出したりするんですけど、それ自体は良いと思って応援してくれてありがたいなと思っているんですけど、「それはただのマーケティングになっていませんか?」というのはやっぱりよく思っちゃうんですよ。結局全然コミュニティというか、生きやすさとか差別を無くそうとか、そういうことはあまりどうでも良くてなんとなく売れたら良いなとか思っているのかな、とか穿った見方で思っちゃう時があります。ただちょっとでもやってくれたことでいい効果がでることもあるので全否定はもちろんしないですけど。
確かに、ことファッションってジェンダーとの関わり方ってすごく深いじゃないですか。型のあり方とかが常に男性的な身体、女性的な身体で分けていることって本来そうあるべきなのかっていう点や単に売れるファッションを作ろうというだけじゃなくて、そういう新しい文化とか価値観を作り出すシーンもあるじゃないですか。だからそのときにたとえ流行りであってもそれが誰かの生きやすさを生んでいる可能性もあるので、もしかしたら50年後とか、価値あることになっているのかも知れない。今生きている自分から見ていると「絶対流行だからやってるでしょ」とか思っちゃうかも知れない。今のコンセプトの空虚さみたいなものはその通りだなと思っていて。現実的に作り手側も「おや」と思っていることもあると思っていて。例えばこれは自分の場合ですけど「なんで男性の商品って全部スカルプ系のスースーするやつばっかりなんだろう」って結構多分思っている男性って少なくないと思うんですけど、そういうときって男らしさの中にいろんなものが詰め込まれているんですよね。爽やかなものとか、シーブリーズ的なニュアンスとか。で、女の子は甘い、とか、それってめちゃくちゃジェンダーによる規範で、女性だから甘いものが好きなのか、甘いものが好きというものが女性であるとされているのか、というものが常に問われなきゃいけないなと思っていて、ファッションというのは特にそこにわかりやすく疑問を問いかけたりすることができると思っています。これってただの流れとか流行りに乗ってるだけじゃない?という気持ちと同時に、男らしさ女らしさを揺さぶっていくことの価値はすごい力を秘めているなと思っていて、なので果敢にトライしつつ、その嘘っぽいところは見抜かれるからぜひそれはもう聞いて実感して学んでを繰り返していって欲しいなという希望はちょっと持っています。
Kotetsu)これはどんなものにも言えるんですけど、作り手に当事者性を感じないで想像で作ることは、漏れは必ず出てくるし、実際に作り手のところに当事者性を持った人を入れるのはとても重要だと思いますね。
松岡・古賀)全部そう。
質問:友情と恋愛ってどう違うのかなと思っていて。どう分けていますか?
一同)まさに「愛情」のテーマ!
松岡)男女に友情はあるか?という記事よくあるじゃないですか。男女というのはそれだけで恋愛的な前提とされがちですよね。自分が女の友達と買い物している時とかカップルと間違えられることもよくあるし。ゲイの場合は同性と付き合うし、同性と友達にもなるから、常に”性的な関係なんじゃないか”と思われているような質問を悪気なく聞かれたりして。それはヘテロであってもこの人は友達、この人とは恋愛可能性がある、みたいなことって全然人によって違うことと同じように、自分のゲイのコミュニティの中でもこの人は友達、この人は恋愛っていうのがあって、でもその線引きは全然できないと、自分も思っていて、友情かと思ったら恋愛であったとか、恋愛だと思ったら友情だったとか、ありますし。
Kotetsu)え!友情だなと思ってたら恋愛だったって、どの瞬間に起きるんですか?
松岡)恋愛可能性って自分の中では線引きがあって、恋愛ラインを超えていたけど友情ゾーンにずっといて、みたいな。いつでも変化する可能性があって、そのゾーンにいない人はずっと友情というのは自分の中にあるかな。
Kotetsu)僕、『IWAKAN vol.2』作るときにめちゃくちゃ悩んで、ちょうどそのとき、パートナーときっかり別れて、全部ブロックして、一切のコネクションを絶ったんですけど、その人は僕と友達になることをすごく望んでいたんですよ。でも僕はその要望に応えられなくて。時間が経って、なぜ僕は彼と友達になれなかったんだろうって思うようになって。僕友達のことめっちゃ好きなんですよ。どの関係性より一番大切にしていて、恋人よりも友達の方が大事。だから友達から恋人になることは今までの経験上ないんですよ。友達が恋人になるということは僕にとっては格下げだから。その関係性はその関係性でしかなくて。友達から恋人になれないというのは多分複雑だけど、僕の場合、ゲイ男性を好きになるとか、ゲイ男性と話している時って、女性がゲイ男性と話している感覚になるの。ていうのは、「この人は虎徹のこと好きにならない」って思ってる。この人は、男性を求めているから、虎徹のこと好きにならない。って思っているから、割と恋愛モードにならないというか、シャッとしちゃう部分があって。割とシスヘテロ男性を好きになることが多くて、でもそれは女性と見られたいわけではなくて、その人は虎徹と関わっている上でノンバイナリーであることを理解していて、虎徹のことを男とも女とも捉えずに関わってくれる、その姿勢が好きというところがあって。… …混乱してきちゃう。どれも肯定されろよって思ったし、言葉が足りなすぎる。言葉がないからないものとされている関係性ってめちゃくちゃにあると思っていて、家族とか友達とか恋人、セフレとかそういう言葉しかなくてそこに当てはまらない関係性が全て排除されている。「結局どっちなの?」って聞かれることがあるけどでもそこなんよ、そこにいるんよ。ってなる。好きな人でもない、友達でもない、名前がないからお気に入りってポジションにしてるんだけど(笑)でも、一人一人にその関係性があって、お気に入りの型にすら全員のことあてはめられないし、大混乱中です。
松岡)概念を作る行為ってすごく大事だなって思ったのが、お互い同意の上で複数の関係を築く「ポリアモリー」っていう言葉を知った時とか、これまで他者との関係性が1対1でないときや複数になるとそれは浮気だとかよくないものというレッテルを貼られていたけど、それが何か別の形で語られうるということにすごい重要性を感じました。
これは人によって受け取られ方いろいろあるんですけど「親子デート」っていう言葉あるじゃないですか。全然使っても良いと思うんですがなんでわざわざ親子の特別な日とか買い物とかに、恋愛の関係性で使う「デート」という言葉を使うのだろうと興味深く感じます。それはなんかもっとそうじゃないスペシャルな関係性のワードが乏しいからそういうワードを使っているのかなと思ったり。そういうときにもっと違うワードがあると、もっと違う多様な表現が生まれるはずなのになと思っています。それが一つ恋愛と友情の関係性というのが1か0かみたいな、パキッと割れるように作られているけど本当はもっとたくさんの言葉が生まれてくるとより選択肢が生まれてくるのかなと思います。あとはオープンリレーションシップという言葉を知ったときもなるほどと思ったことがあって。何か特定のパートナーシップを結んでいると他者と性的な関係を持つことはよくないこととされているけど、お互いが同意の上で恋愛の意味とか家族としてとかあっても外で性的な関係性を結んでもいいよっていうのがオープンリレーションシップというときに、確かに本人たちがいいと思うときに、誰にどんな迷惑をかけるんだろうかということを思いました。やっぱり言葉が作られることはすごい重要なことだなと思います。
Kotetsu)言葉があって自分の行動を肯定できるようになればいいのに、今は本当にそのロマンティックラブイデオロギーが強すぎて、決まり切った関係性の型から外れることが裏切り行為でダメっていうのはすごい苦しめてるなと思うし、そこからどう解放できるのかというのはどの立場の人から進めていけるのかっていうのはすごい疑問で。クイアが置かれている現状だったり制度に対しての問題っていろんな意見はあるけど「マジョリティが頑張れよ」って思うことがある。生きていく中でボロボロにされたりしんどい思いする中でなんで自分たちがボロボロの状態なのに頑張らないといけないの、戦える人たちが戦ってよって思ったりするんですね。もちろん自分たちが声をあげることが大事なのもわかっているから、自分で声上げたりもするけど、こういう規範に当てはまらない、当てはまるかもと思ってもアクションできないっていうときに、それってその人が頑張らないといけないことなのかな。
松岡)「規範」っていう言葉が個人的にいいなと思っているのが、法律とか制度だけじゃなくて決められていて文字化されているものだけでないものを含んでいるんですよね。こうあるべきだとか、この方が望ましい、良い悪いとか。社会で規範をなくすのはできないですよね。自分と社会のつながりの中で。でもそのときに言葉を知っていたり、疑問を持つということを実践できると、自分の場合はちょっと解放されたり楽になったことが今までたくさんあって。体細いから男らしくないってレッテル貼られることも多かったし。でも「だから何?」って、「逆にそんな男らしさのヒエラルキーに凝り固まって大変ですね」みたいに思えるようになったりとか、そういうヒエラルキーの構造とか全体が見えていると逸脱することに対して「別に」って思える力を得られる、それが知識をつけるとか言葉を知ることとか、今の構造を疑ってみるとか、完全に解放されることは難しいけど、今自分の実践している生活の中でできることっていっぱいあるなって思えるようになったのは、自分も楽になったし誰かとの関係性を作る中でも「決めつけないようにしよう」と思えることにつながるし、そういう意味でも特権性のある人が戦ってくれることももちろん大事だけど 一般生活レベルでいうと結構一人一人にできることはたくさんあるかなと思います。
Kotetsu)ルールと規範は違うというのだけ知るのだけでもすごい大きな収穫だなと思います。
松岡)ニアリーイコールですよね。規範と言うのはすごく大きな概念なので。
古賀)渡辺ペコさんの『1122』もルールとか規範とかを描いていてまさに読んでほしい漫画です。
松岡)ああ〜、「こうあるべき」と「現実」が折り合わなくなったときにどうするかとかいろんな観点から面白い漫画ですよね。